• ミロコマチコ「ミロコあたり」

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 口の上に大きなホクロがある。そこにホクロがある人は食べることには困らない、と昔からよく言われた。そう言われることに、いつもピンと来ていなかった。
 食べることに全く興味がない子どもだった。10歳くらいまではお腹が空いた覚えがない。
 保育園では、みんなが昼寝の時間になっても、廊下にテーブルを出されて、いつまでもご飯と向き合っていた。小学校では、いつも掃除の時間まで食べていた。どうしても給食が食べられなくて、歯が痛いと嘘をついて、早退したこともある。児童会のおやつの時間でさえ、本を読んでごまかしていて、立たされた。おやつを食べなくて立たされているなんて、不思議なことだ。
 家での食事は、「ちゃんと残さず食べなさい」と言われるけれど、おかずは大皿盛りで、各々小皿に取って食べればいいので、食卓についてさえいれば、あまり食べなくてもバレなかった。
 とにかくある意味、食べることに困っていた。毎日のご飯の時間が苦痛で、辛かった。食事とは、お腹が空くからではなく、その時間になるから、やらなくてはならない義務だった。
 だけど、11歳のある日、突然、空腹を感じた。その日の給食はカレーで、何の無理もなくスルスルと体に入っていった。空になったアルミの皿を見て、ひとりでワナワナと感動していた。
 その後、徐々に人並みくらいに食べれるようになった。だけど、中学高校と進む間も、それ以上食事に興味が湧くことがなく、ないなら食べなくてもいい、という感じだった。
 幼い頃から、習い事が多くて、あまり家にいる時間がなかったこともあり、恥ずかしながら、家の料理のお手伝いはほとんどしたことがなかった。家庭科の調理実習の時間では、せっかく取った出汁の意味がわからず捨ててしまい、同じ班のみんなには迷惑をかけた。
 どうやらお酒は好きだったようで、飲めるようになってからは、食事の場は楽しいものにはなった。ただ、美味しいと思っていたかは怪しかった。大阪時代は、安いチェーン店の居酒屋に行くしかなかった。友だちもみんなお金がなかったこともあるが、美味しさより、安さや量を重視していた。お酒もいかに安く酔っ払えるかで選ぶ。
 大阪から東京に出てきたばかりの3年間は、一番お金がなかった。絵の仕事も何もないままに、東京とはどんな所なんだろうという好奇心から、ぴょんと飛び出してきた。
 東京は、電車賃以外は、何もかも高かった。大阪で2,000〜3,000円でお酒を飲めていたのに比べて、4,000〜5,000円かかる。絵を描く時間も欲しいので、アルバイトをたくさん入れることはできず、ギリギリの生活。お昼過ぎから夜10時くらいまでの仕事に、いつも家でおにぎりをひとつ握って、アルバイトに持って行っていた。夕ご飯はそれのみ。
 そんな時に、近所に住んでいる画家の牧野伊三夫さんに出会った。「今日、お昼ごはん食べにこない?」と、朝、電話がかかってくる。道中のスーパーで、頼まれたネギや生姜などを買っていく。
 牧野さんは、丁寧に大胆に料理をする。料理の前に包丁を研ぐ。煮えるのをじっくり見て待つ。湯がいたそうめんは、ザッバザッバと大量の水で洗う。
 私があまり料理できないのを知ると、ゆっくりと教えてくれた。ノートに材料の切り方や作り方を書きとめる。お手伝いの方がいる日も多く、いつも3、4人で、料理する係、テーブルのセッティングをする係、ノートに書く係、など自然に動くようになった。
 納豆チャーハンやうどん、ほうじ茶で作る茶粥は定番だった。自家製たくあんは、お弁当に入っているような水分が多くて真っ黄色のではなく、しわしわで薄いベージュ色をしてて、塩気の効いた渋い味で、茶粥にめちゃくちゃよく合った。
 アルバイトがなければ、そのまま牧野家で本を読んだり、打ち合わせに来るお客さんにお茶を出したりしていた。そのまま日が暮れて、夜ごはんも一緒に作って食べて帰る。アルバイトがあっても、終わったら、牧野家に寄ってご飯を食べて帰る始末。
 お酒が大好きな牧野さんは、夜は必ず飲む。昼とは違い、数種類のおつまみを作り、食事によってどんどんお酒を変えた。教えてくれる組み合わせはどれも目を見開くくらい美味しくて、高揚しっぱなしだった。牧野さんがマダガスカルで体験したという、バナナフランベが絶品で、いつもデザートに作ってほしいと要求した。バニラアイスを添えて食べるのが最高。
 そんな具合に、多い時は週4回くらい牧野家にいた。
 ノートはいつも引き出しの一番上に入れてあって、料理の度に書き加えられていった。ある日、いつも一緒にご飯を共にしていた友人が、「本にしよう!」と言って、ノートをコピーしたり、文章を加えたりして、綴じてくれた。手作りの『牧野食堂』という小さな冊子が数冊できて、牧野さんと私で表紙を描いた。
 お互いが引っ越しをして、頻繁に行くことはできなくなるまでの3年間は、私にとって、食べることが生活の主役になった、革命的な時間だった。
 食べることはすごい。世の中にはあらゆる種類の食材や料理があって、今なお、生み出されつづけている。めくるめく食べ物の世界。ほとんどの人たちは生まれながらにして、こんな喜びを知っていたのかと思うと羨ましい。1日に3回も幸せな時間がある。でも、私にも遅れに遅れてこの喜びがやってきた。日々が全然違う。
 口の上のホクロが、以前よりは誇らしげである。



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