• ミロコマチコ「ミロコあたり」

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 奄美大島と本州を繋ぐ乗り物には、船と飛行機の2種類がある。船は沖縄方面か鹿児島行きだけなので、あまり使うことがなく、まだ乗ったことがない。私は出張が多いので、いつも空港へ見送ってもらい、迎えてもらう側だったが、珍しく夫が12月に出張があり、年末に帰ってくるというので、空港へ迎えに行った。
 空港は、今まで見たことがないくらい混雑して賑わっていた。いつも見る観光ツアーのお迎えとは違い、家族連れが多い。おばあちゃんやおじいちゃんが、今か今かと到着ゲートを見つめている。飛行機が着くと、若い夫婦や子供達がたくさん降りてきた。預け荷物が流れてくる受け取り所はガラス張りになっていて、みんな必死でお互いを探して、見つけると嬉しそうに手を振る。背伸びしたり、何度もベルトコンベアとガラスを行き来して、荷物を待つ時間も惜しそうだ。多くの乗客は、年末年始の実家への帰省だったのだ。
 到着出口のゲートで、子供や孫との再会を喜ぶ家族。東京からの便だったので、羽田と書いたお土産袋を持っている人が多い。
「元気だった?」
「大きくなったねぇー」
という声が方々から聞こえてくる。
 私たちは年末年始は実家に帰らないで、島で過ごした。冬休みに入った島の子供達は、相変わらず日々うちに遊びに来ていたが、
「明日は〇〇おばちゃんがいとこと帰ってくるんだー」とか、
「お正月は〇〇じいちゃんのところに行くんだよ」
なんて話をよくするようになった。
 島がそんな風に賑わっていく中で、仲の良い家族たちに親戚を紹介してもらったり、交わらせてもらってお酒を飲んだ。元旦は町にある20の集落対抗の駅伝があり、うちの前の道がコースだった。小学生から大人までがチームを組んで、たすきを繋ぐ。友達やよく遊びに来る子供達が走るので、応援旗のつもりで、挿木にするために庭で水差ししてあった千年木を振って応援したりした。朝晩に海の上に雲がかかることの多い島では、初日の出は見れなかった。毎朝チャレンジしたが、いつも雲がかかっていて太陽は現れない。でも薄暗い空がピンクに変わり、白く光る海を眺める朝は清々しかった。
 楽しく過ごしたお正月はあっという間に過ぎ、また夫が出張で東京に行くというので、空港まで送りに行った。すると今度は休みを終えて、帰っていく人々で混み合っていた。迎えはおじいちゃんとおばあちゃんだけだったのが、帰りは島に住む兄弟の家族なんかも来ているので、一組を送る人数が多い。保安検査場はそこまで混んでいないのに、その周りを囲む人達でごった返していた。休みの間に仲良くなったのであろう、いとこ同士と思われる子供達も名残惜しそうに、
「また来てね」
「また遊ぼうね」
と約束する。手荷物検査に並ぶ間、何度も振り返っては手を振る。
 年末と違って、年始の見送りは寂しい切ない気持ちが溢れている。その大勢いる隙間から夫を見送っていると、私もつられて寂しい気持ちがこみ上げてきた。夫はたった4日ほどで帰ってくるのだが、もう来年まで会えないような気持ちがしてくる。
 手荷物検査場を通過すると、飛ぶ飛行機を見送るため屋上へ上がったり、帰路へつく人もいたり、散り散りに離れていく。私も車へ乗り込み、駐車場を出る列に並ぶ。それぞれの車を見ながら、「楽しい賑やかなお正月が終わって、寂しいねぇ」なんて話しているのかな、と想像する。
 大阪と東京にしか住んだことがなかった私には、飛行機は旅行へ行く時に乗るものだった。故郷を離れたのが20代後半と遅かったこともあり、大阪から東京に引っ越した時も、見送りは玄関までだった。また新幹線だとあっけないものもあるだろう。
 だから、数々のお迎えとお別れが、こんなにも思いが満ち溢れている様を見ることもなかった。
 島にいると、別れは特別なものがある気がする。海の向こうに行ってしまうんだと思うと、そう簡単には会えないという気持ちが膨らんで、人の想いを大きくする。
 春に高校を卒業したばかりの子供達が島を出ていく際には、船からたくさんのテープをつないでお別れをするそうだ。家族だけではなく後輩たちも来て、唄を歌ったり、声をかけたり大変に賑わうらしい。
 私はまだ島に来て2年半だが、近所の子供達は着々と成長している。あっという間に島を発つ時が来そうだ。見送りに行ったりしたら、母のような気持ちなって泣いてしまうかもしれない。想像しただけで胸にこみ上げてくるものがある。



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