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こんにちは、チャーリー。僕、井の頭公園のすぐ近くに引っ越しました。
 え? また、引っ越したの?って。うんそうなんだけど、多分今度こそ、もうしばらくは引っ越さないと思うよ。多分。
 今は秋の終わり。公園の木々の葉は黄色や茶色になって、はらはら落ちている。夏よりも空がだんだん広くなって、ちょっと大人っぽい湿った静けさが漂って、僕はこの季節の井の頭公園、好きなんだ。
 僕は戦争中に東京で生まれて、疎開はしたものの、育ったのも暮らしていたのもずっと東京だったから、いわゆる故郷というものがない。と思っていた。夏休みにふるさとに帰るとか、故郷のお袋、田舎の親戚なんていう言葉に、すごく憧れていたんだ。ところが、4、5年前に、井の頭の隣の三鷹台に引っ越して、井の頭公園にしょっちゅう行くようになってね、自転車で息子の十二夜(じゅうにや)と走り回っていると、なんだか胸がしめつけられるような、懐かしい、もっとなんていうんだろう、密度の濃い懐かしさの塊が身体中に膨らんで息苦しくなるような、ま、とにかくそんな感情に襲われて、ああ、僕の心の故郷は、井の頭なんだなあと思った。へー、こんな近くでも、故郷なんだ。すぐそこにある故郷。いいなあ。そういう気がして、そうなると井の頭のどこか、出来れば自分が昔住んでいた辺りで暮らしたくてたまらなくなった。
 僕の両親は東京の都心で生まれ育ったので、僕も生まれたときは巣鴨にいたらしいんだけど、空襲がはげしくなって山形県新庄の近くの荒小屋というところに疎開して、僕の3歳の誕生日に広島に原爆が落とされて、間もなく終戦。 4歳の頃、東京に戻ってきたのかな? かなって、だって小さかったんだから、後で親に聞いてそうなのかと思うしかないもの。とにかく、自分たちの住んでいた都心はどこも焼け野原で、どうやって探したのか井の頭に家を借りたんだね。
 今はその辺りの住所を井の頭というのだけど、昔は牟礼(むれ)といっていた。今でも牟礼という地域はあるけど、井の頭公園から随分離れたところなんだ。いつ変えたのだろう。僕には井の頭公園も懐かしいけれど、三鷹市牟礼というひびきも懐かしい。でも僕の牟礼は、今は井の頭と呼ばれている、自分が住んでいたごく小さな範囲のあの辺り。狭い砂利道をバスが無理矢理通る、欅の木が並んでいた自分の家の辺りのことなんだけどなあ。
 牟礼の家の思い出はいっぱいあるけど、また今度。今日は、井の頭公園のことを少し話そう。
 あの頃は、今みたいにきれいに整備されてはいなかったけれど、動物園もあったし、もう貸しボート屋もあったんだよ。スワンの形をしているボートもあった。お団子なんか売っている茶店みたいなのがあった。それから弁天様のそばに市営プールがあってね、地下水を汲み上げているのでものすごく冷たくて、真夏でも永く入っているとみんな唇が紫色になってぶるぶる震えていたっけ。1時間だか2時間の入れ替え制で、暑い中いつも長い列ができていた。蝉の鳴き声。待っている連中はあんまり暑くてアイスキャンディーをなめている。出てきた連中はからだが冷え切っていて、おでんのコンニャクなんかほおばっている。今はあのプールはない。
 そのプールに入るお金もない貧乏な子どもたちは、井の頭池で泳いでいた。ベルトに手ぬぐいを引っ掛けた即席のふんどしで、小さな太鼓橋から飛び込んだり、小山みたいなところに水を流して滑り台にして遊ぶ。僕もときどき泳いだ。身体中が水蘚(みずごけ)で緑色になって、今考えたらものすごく不潔だった。だからなのか、どうも禁止されていたらしく、白いボートで見張りが来ると、みんな一散に逃げた。「エンテイダー!」なんて叫びながらね。
 「エンテイ」というのは、白いボートに乗った怖い叔父さんのことだと思っていたけど、園丁、つまり公園の見張りや手入れをしている人だったんだね。その園丁のボートの漕ぎ方は普通の人たちとちょっと違っていて、オールを左右かわるがわるすごいスピードで動かすんだけど、いかにもボートを扱いなれているみたいでカッコよかった。もうちょっと大きくなってから、僕も一生懸命練習して真似をしたっけ。
 僕の父・孫一さんも、井の頭公園が好きだったんだろうな。引っ越してきたばかりの、僕がまだとても小さな頃、ひとつ年下の弟と一緒によく連れて行ってくれた。カイツブリとか、コブガチョウとか、水鳥の名前を教えてくれた。僕らは橋を渡るたびに、「コブガチョー!」と叫んだ。コブガチョウはその度に、律儀に「ガー!ガー!」と答えてくれた。
 孫一さんは、池に突き出した桜の木の枝にまたがって、大きな声で詩の朗読をした。
「ミシシッピーの川上にドロンと日暮れが落ちていた......」
 池の水面に本当の夕陽が映って、きらきらまぶしく光っていた。僕と弟は、池の対岸に並んでうれしくなって「父ちゃんバンザーイ!」と叫んで手をたたいていた。ミシシッピーの川上にドロンと日暮れが落ちていた......その先は思い出せない。けれど、 そこだけは、ずっと覚えている。太い枝にまたがった池の上の孫一さんの姿と一緒に思い出す。
 あの頃は、井の頭の花火大会というのがあって、池の真ん中に、打ち上げ花火や、仕掛け花火が設えられてね、もちろん隅田川なんかとは規模が違うけど、それでも結構人が集まったんだよ。あんまり混んでいると、僕らは自分の家の屋根にのぼって木々の向うに上がる花火を眺めたっけ。孫一さんはあとになって『花火の見える家』という本を書いた。
 僕は小学生になり、家から井の頭公園を通って吉祥寺に出て、そこからまた歩いて学校に通うことになった。公園の中を歩くのに、早足はもったいない。道草していたら遅れちゃう。でも多分、何度も遅刻をしたんだろうなあ。
 大きくなってから僕の母、美枝子さんに聞いたことだけど、あの頃孫一さんは、どこかの高校の先生になったことがあったらしく、やっぱり公園を通っていくのだけど、途中でベンチに腰かけてのんびり池を眺め、美枝子さんの作ったお弁当を食べて、そのまま家に帰ってきちゃったって。こんな話を聞くと、どんな子どもでも、自分の父親がいっそう好きになるのかなあ。
 そうだ、こんなことがあった。蛇を捕まえて箱に入れ、 縁の下で飼っていたことがお婆ちゃんに見つかって、蛇は神様のお使いだから逃がしてあげなさいと言われてね。
「どこへ逃がしたらいいの?」と聞くと、「じゃあ、井の頭の弁天様のところで逃がしなさい」。
 で、弁天様が見える池の淵で蛇を逃がすと、蛇は水面をすーっと蛇行しながら、池に突き出している弁天様の小さな神社に向かって行ったんだ。僕はもうびっくりしちゃってね、ああ、やっぱり蛇は神様の使いなのかなあ、なんて本気で思ったりした。
 井の頭公園は何十年も経って、多分随分変わったんだと思う。学校の帰りにしょっちゅう飲んでいた御茶ノ水という湧き水には「この水は飲めません」と看板が立っているし、もちろん池で泳いでいる子どもなんかいるわけがない。白いボートを巧みに操る園丁もいない。
 第一、人が大勢いる。土日になると、 アートマーケットといって絵やら手作りアクセサリーを地面に並べている。大道芸人、ストリートミュージシャン、なんかとっても平和でいいじゃないかと思う。
 それに多分、変わらないものもたくさんある。十二夜と一緒に井の頭の木漏れ日の中を自転車で走ると、目に見えない何かが、昔の、あのままのような気がする。

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 ブロンズ新社の若月さんに、ブログの連載をやりなさいと言われて、不用意にうれしくなった。どういうことになるのかよく解かっていないのに、なんだか普段やっていることとは違った形で、普段出会えない誰かに出会えるような気がしているからだ。多くの人たちには、すでにごく日常的な発信受信のハイテク機能が、僕には少し胡散臭く、同時に知らない楽しみの糸口に思え、ワクワクする。
 次は何を書くのかわからない。エッセイだったりフィクションだったり、思い出話だったり、空想だったり、時には憤りだったり、夢物語だったり、その日ぱっと語りたくなったことを書くことにしよう......かな。



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