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ピカソ、モネ、ロダン、プルースト、ヴェルディ......
主に19~20世紀に活躍した画家、彫刻家、作家、音楽家たち。
彼らが生まれた国や国籍、とりまく環境が
味覚や嗜好をつくり上げ、その結果、彼らは芸術と同じくらい
食べることにも、独自のセンスとこだわりを持っていた。
なかでも西洋人の彼らにとって、食後やお茶の時間のスイーツには
料理とはまた異なる、特別な思いがあったにちがいない。
あの芸術家はどんなスイーツの前で、極上の笑みを浮かべたのだろうか。

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 言葉がもたらす想像力は、はるかに映像のそれを上回ると思う。作家アーネスト・ヘミングウェイの作品を読むと、痛感させられる。ごく短い文章から物語の情景が、小石が投げ込まれた水面の波紋ように、脳裏に広がっていくのだから......。
 ノーベル賞授賞作家の優れた文章力は、ヘミングウェイが生まれ故郷のアメリカの田舎から都会に出、新聞記者見習いとして働きはじめた時代に培われたものだ。最初に働いたカンザスシティの「カンザスシティ・スター」紙は、短く的確に表現し、正確かつ明瞭、さらに緊迫感をもたせるようにと記者たちを指導した。
 細部を省略し、匂わせるだけという、ヘミングウェイらしい文体も、同時期に習得したものであろう。のちに、このときの経験を「ものを書く仕事のために私が学んだ最上の心得」と、彼自身も語っているのだ。
 ヘミングウェイは、シカゴ郊外のオークパークという町で、6人きょうだいの長男として生まれた。医者である父と声楽を志した母は、共にアメリカで財を成した家柄の出で、シカゴの上流階級であると自負していたようだ。
 母にひと目惚れをしてしまった父は、「結婚してくれるなら、家事は一切やらなくてもいい」といって求婚した。結婚後も、父はその約束を忠実に守り、普段いる料理人が休みの日には、父がキッチンに立って料理をした。母の得意料理といえば、コーンフレークをつけて揚げたポークチョップだったというから、父の料理のほうが、ヘミングウェイを含む6人の子どもたちにとって、はるかに幸せだったにちがいない。
 ヘミングウェイ家では、母が指導権を握り、父は母のいいなりだったようだ。そんな父の趣味は狩猟で、このときばかりは、男性としての支配欲が満たされた。ヘミングウェイの狩猟、釣り、アウトドア好きは、明らかに父の影響を受けている。
 片や母はというと、ヘミングウェイに4歳になるまで、姉と同じような髪型に結い、レースの服や花飾りがついた帽子を身につけさせていたとか。この女王気どりの母への反発心から、マッチョなヘミングウェイがつくり上げられたというのは想像に難くない。
 アメリカで記者としての経験を積み、新妻ハドリーを連れてパリに渡ったのは、1921年12月、ヘミングウェイ22歳のとき。カナダの「トロント・スター」紙のヨーロッパ特派員としてであった。
 当時のパリには、アメリカ出身の文化人コミュニティがあった。紹介状を持っていたヘミングウェイは、そこで、ペンシルベニア州生まれの天才作家ガートルード・スタインや詩人のエズラ・パウンド、そしてシェイクスピア&カンパニー書店のオーナー、シルヴィア・ビーチと出会い、大いに影響を受ける。
 スタインは、ハイクラスの作家や芸術家を引きつけるオーラを放っており、ピカソやマティスなどとも交流があった。ヘミングウェイはリュクサンブール庭園を散歩しながら、スタインが芸術について語る情熱的な言葉に、熱心に耳を傾けたという。彼女は自分が感銘を受けたセザンヌの作品を例に出し、セザンヌが筆と絵の具で、光と陰をつくり出したように、同じフレーズを繰り返したり、強調したりしながら、陰影をつけ、独自の文体を生み出した体験談を語ってくれた。この「文筆家と画家は同じだ」という彼女の持論に触発されたヘミングウェイは、彼なりに文体を試行錯誤し、独自のスタイルへと確立させていく。
 一方、ビーチが営むシェイクスピア&カンパニー書店は、当時は英語専門書店兼貸本屋で、英語圏の小説家、詩人、芸術家、そしてイギリス好きのソルボンヌ大学の学生が入りびたっていた。品揃えはすばらしく、古典から現代までの文学、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国やアメリカなどの詩集や芸術雑誌が手に入ったという。
 ほどなくして、ヘミングウェイは記者を辞め、小説を書きはじめたが、最初はもちろん売れずに、薪や食糧にも事欠いた。パリで暮らした頃のことを綴った彼の遺作ともなる『移動祝祭日』の中に、昼食に招かれると嘘をついて、リュクサンブール庭園を歩いて時間を潰し、帰ってから妻ハドリーにおいしかった食事の話をして聞かせるというくだりがある。食費を少しでも浮かせようとしてついたヘミングウェイのやさしい嘘に、読者が小さく心揺さぶられるシーンだ。
 あるとき彼は、珍しく懐具合がよくて、シェイクスピア&カンパニー書店のツケを払いにいく前に、まずは胃袋を満たそうと、自らの手料理でテーブルを囲んでいる。
 前菜には、定番の生のラディッシュを。フランス式は、ラディッシュに切り込みを入れ、バターを少し塗り、塩をつけていただくが、ヘミングウェイ式は、溶かしバターにしてラディッシュにまわしかけ、塩をふっていただく。メインディッシュには、香ばしいバターで炒めた仔牛のレバーに、やわらかいマッシュポテトを。この日のメニューには、ほろ苦いチコリのサラダも載っているのだが、前菜としていただくのか、つけ合わせなのかは不明である。
 デザートにはアップルタルト、Tarte aux pommesタルト・オ・ポムを焼いた。フランスでりんごを使ったパイといえば、このタルト・オ・ポムになる。練りパイ生地をタルト皿に広げ、薄切りりんごを放射状に並べてオーブンでこんがりと焼き上げたものだ。
 アメリカ人のヘミングウェイは、例にもれずアップルパイが好物だった。これはアメリカ人にとっておふくろの味のひとつで、レシピはママの数だけあると聞く。だが、ヘミングウェイにとっては、十中八九、パパの味だった。彼は、空き缶を使ってパイ生地をのばすという技を、父の料理書を読んで身につけたという。おそらくパリのキッチンでは、空き缶ではなく、フランス人が麺棒代わりによく使うワインボトルを使った可能性もあるが......。
 貧しくとも、愛する妻と囲むテーブルは、どんなにか幸せなひとときであっただろう。若き作家の才能は、美しいパリとそこに暮らす仲間たちに育まれ、ついに処女作『三つの短篇と十の詩』を出版するに至った。
 名声を得、世界的文豪となった後も、ヘミングウェイのパリの思い出は、色あせることなく、むしろ輝きを増し、晩年に『移動祝祭日』という作品となって甦る。この本の冒頭に、「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、パリはきみについてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ」という一節が添えられている。幸運にも、若き日にパリで暮らすことができた私には、この言葉が引き金となり、パリでの思い出が、脳裏によみがえる。そう、小石が投げ込まれた水面の波紋のように......。

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材 料(直径22cmのタルト型)
練りパイ生地
 薄力粉 ... 140g
 有塩バター ... 60g
 塩 ... 小さじ1/3
 冷水 ... 大さじ2~3
フィリング
 りんご ... 2個(1個300g)
 砂糖 ... 10~20g
 シナモン ... 適宜


つくり方
1. ボウルに薄力粉、約2cm角に切ったバター、塩を入れ、粉をまぶしながら手でバターをつぶし、
   そぼろ状にする。
2. 冷水を少しずつ分けて加え、混ぜながらひとかたまりにまとめる。
3. 2をラップで包み、冷蔵庫で10分ねかせる。
4. 3を冷蔵庫からとり出し、薄力粉(分量外)をふった台の上にのせ、
  めん棒で直径約20㎝の円にのばす。
5. 4を型の中央にのせ、指を使って縁のところまで、きれいに敷き詰める。
6. 5の全体にフォークで空気穴を開け、冷蔵庫に入れておく。
7. りんごは皮をむいて芯をとり除き、厚さ約3mmのくし形に切る。
8. 6を冷蔵庫からとり出し、7を2層の放射状に並べる。
9. 8の全体に砂糖とシナモンをふり、200℃に温めたオーブンで30~40分焼く。

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