
ピカソ、モネ、ロダン、プルースト、ヴェルディ......
主に19~20世紀に活躍した画家、彫刻家、作家、音楽家たち。
彼らが生まれた国や国籍、とりまく環境が
味覚や嗜好をつくり上げ、その結果、彼らは芸術と同じくらい
食べることにも、独自のセンスとこだわりを持っていた。
なかでも西洋人の彼らにとって、食後やお茶の時間のスイーツには
料理とはまた異なる、特別な思いがあったにちがいない。
あの芸術家はどんなスイーツの前で、極上の笑みを浮かべたのだろうか。


「1999年7の月に、天から恐怖の大王が降りて来るだろう」と16世紀に予言して、20世紀末に生きる人々を震撼とさせたノストラダムス。しかし、予言は的中せず、私たちは無事に21世紀を迎え、今はもう、その名前を耳にすることも少なくなった。
そんなオカルト的な存在で知られたノストラダムが、16世紀の当時においては、人望の厚い優秀な医師で、熱心なキリスト教徒として、隣人を愛し、家族を愛した、実在の人物だったということをご存知だろうか。
16世紀の医師は、医学だけではなく、薬学、植物学、そして天文学(占星術)をも修めていた。とりわけ占星術との関わりが密接で、医学には、月や星の法則がとり入れられていた。
ノストラダムスの本名は、Michel de Nostre-Dame ミシェル・ド・ノートル=ダム。苗字のノートル=ダムをラテン語読みしたNostradamusノストラダムスを、後のペンネームとしたようだ。ちなみに、フランス語では、ノストラダミュスと発音して、この言葉は、聖母マリアを意味する。
彼は1503年、南フランス、プロヴァンス地方の Saint-Rémy de Provence サン=レミ・ド・プロヴァンスの裕福なブルジョワ家庭に生を受ける。
医師をしていた母方の曾祖父Jean de Saint-Rémy ジャン・ド・サン=レミは、博学な地元の名士で、長老的存在だったという。少年ノストラダムスは、両親と共にこの曾祖父のもとで暮らす。曾祖父ジャンは、晩年の15年間を、曾孫ミシェルの教育に専念し、医学、数学、天文学(占星術)などを教え込んだという。白髪の老人が才能を秘めた幼子にありとあらゆる知恵を授ける......ノストラダムスの幼少期を物語るにふさわしいエピソードではあるが、肝心のジャンは、1504年、ノストラダムスが1歳のときに亡くなっているという説もあるから、真相は闇の中だ。
ノストラダムスが生きた16世紀は、フランスにおけるルネッサンス期で、今から約500年も前のことだ。ノストラダムに関する史料は古く、もちろん残っていないものも多い。なおかつ、世界中の学者が研究対象とした人物なので、彼の経歴には諸説が飛び交っている。医学を学び、資格を得たであろう大学やその時期に関してもそうだから、ここでは軽く、モンペリエ大学の医学部で、当時の医学に必要な知識を学び、医者になる資格をとった、とだけ述べておこう。
16世紀の南フランスで、もうひとつ忘れてはならないのが、ペストの流行である。ノストラダムスは、長期の留守中に、最初の妻と子どもを、ペストが原因で亡くしてしまったものと思われる。最愛の家族を失った彼の悲しみや後悔は、計りしれないものがあっただろう。その悲しみを抱えながら、ノストラダムスはますます医師として人命救助に力を尽くしたという。
それゆえ、1546年に、同地方のAix en Provenceエクス・アン・プロヴァンスでペストが大流行した際も、危険をかえりみず、最前線に立ってペスト撲滅に専念した。ノストラダムスは、そのときすでに、ペストはネズミを媒介として感染することを見抜き、アルコールや熱湯による消毒や、火葬を推奨したという逸話も残っている。
ところで、プロヴァンス地方は、当時からフランスでも有数の果物の産地だったようだ。収穫期には食べ切れず廃棄していた果物や野菜を、何とかして冬の季節や飢饉の年に備えて保存できないものか、とノストラダムスは考える。1547年から3年間、学問の先進国であったイタリアを訪れたノストラダムスは、砂糖や蜂蜜を使った保存法を研究している人物と出会う。帰国後、彼は、さまざまな果物や野菜を、ジャムや糖衣がけにして保存する方法を研究し、1555年(1552年説もある)に、『ジャムと化粧品論(Le traité des confitures et fardements)』という本にまとめて、出版した。初版のタイトルはもっと長く、200字以上に及ぶものだったので、本国フランスでもこの短いタイトルのほうが知られている。
とはいえ、当時、砂糖はまだまだ貴重品で、一部の人間にしか手に入らないものだった。裕福で薬剤師の資格をもつノストラダムスでさえ、わずかな砂糖しか使えなかった。大半は、蜂蜜やDefrutum デフルトムを使ったという。デフルトムは、発酵前のワイン、つまりぶどうの絞り汁を鍋に入れ、1/4の量になるまで煮詰めたものをベースにしてつくられた甘味料(ぶどうは老木に実をつける、よく熟れた糖度の高いものが使われた)。そもそも、デフルトムはローマ時代の産物で、この時代にはすでに姿を消してしまっていたが、ノストラダムスはこれに目をつけ、製造を推奨したようだ。
ここで、今もフランスでつくられている、野菜や果物の加工品についてご紹介しておこう。
まずは、果物を砂糖でやわらかく煮たものが、Compote コンポート。砂糖を多めにし、しっかりと煮詰めたものが、Confiture コンフィチュール、もしくは、Marmelade マルムラード。これらは、日本のジャムやマーマレードにあたる。果汁だけを抽出し、砂糖と一緒に煮詰めたものを Gelée ジュレ。そして、シロップに漬けて乾燥させた果物を Fruit confit フリュイ・コンフィ、ピュレ状にした果物を砂糖と一緒に煮て、常温で乾燥させながら固めたものを Pâtes de fruits パット・ド・フリュイという。
『ジャムと化粧品論』には、オレンジやレモン、さくらんぼ、りんご、カリン、洋梨、プラム、イチジクなどのレシピが掲載されている。さらに、レタス、かぼちゃ、にんじん、ビーツなどの野菜や、生姜などの香辛料でつくるレシピもある。
南アジアが原産地といわれる生姜は、16世紀によく食されていた香辛料のひとつで、その少し前の中世ヨーロッパでは、信じられないほど高価なものだった。ノストラダムスの時代になると、交易が盛んになり、アジアからアラブの隊商を通してヨーロッパへ、そして、ヴェニスやジェノヴァなどのイタリア商人によって、南フランスへともち込まれたのだ。
ノストラダムは当時、一番ポピュラーだった中近東のアラビア産の生姜を使っていたという。当時の生姜は、辛味が強く、焦げたような独特の匂いがあったとある。それを十分にとり除くために、彼は、生姜を熱湯に3日間浸した(もちろん毎日その熱湯はとり替える)。3日後、少量の洗剤を入れた熱湯で茹でるとよいと、入念な下ごしらえを記述している。洗剤といってもノストラダムの時代ならば、口に入れても無害なものであったことは想像に難くない。おそらく重曹のようなもので、生の生姜に含まれる辛味や匂いを和らげる効果があったようだ。
私は、やわらかい新生姜が出まわるこの初夏に、ノストラダムスの著書の中では「生姜のコンフィチュール」という名前で紹介されている、生姜の蜂蜜煮をつくるのを楽しみにしている。
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材 料 (つくりやすい分量)
新生姜(皮をむいて)... 200g
蜂蜜 ... 200g
バター ... 少々
つくり方
1. 皮をむいた新生姜は、1cm角に切る。
2. 鍋にたっぷりと水を入れて強火にかけ、沸騰したら弱火で30分~1時間、やわらかくなるまで茹でる。
3. 生姜がやわらかくなったらザルにあげ、よく水洗いする。
4. 小鍋に蜂蜜を入れて弱火にかける。
5. ふつふつと沸騰したら、4に3と小指の先くらいの大きさのバターを入れ、約8分間煮る。
途中アクが浮いてきたら丁寧にすくう。
6. 5が熱いうちに、煮沸消毒したビンに入れて、ふたを閉める。
楽しみ方
ヨーグルトに落としたり、炭酸水や熱湯で割ってもおいしい。
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